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2017/10/09

悲しい人

私は若いうちに恥を重ねて、その恥を思い出して今でも寝られないような思いになることがあります。

だから、自分の行いや現在の気持ちというものに対してどこか懐疑心を持って、距離をとって考えるようにしております。なぜそう思ったか?なぜそうしようと思ったか?そういう動機を内省してからでないと行動ができません。その傾向は歳を重ねてより顕著になってきました。こう書くと自分が理知的な人物のように思えるけど、若い時分の行動の反省と反動の結果なので、全然理知的でも論理的でもなく、いまだに突発的に行動をしてしまって後悔することはよくあります。

あるところにひとり非常に難しい人物がいて、日によって言っていることややっていることがまったく反転する。ある日は好々爺であったかと思うと、ある日は荒れに荒れて周囲に際限なく災厄をもたらしたりする。ところが、そのような人物に限って外面は非常にいいものだから、注意深く付き合わないとその異常性を見逃してしまったりする。でも、それは単に「気分屋」で片付けられるような問題ではなかったりするわけです。

私は、彼が他人にいい顔をする時にはそれは彼の自我にとって「気持ちがいい」からなのだろうと常々思っています。その行いによって自分を後付けで正当化しようとしているわけで、要するに自分は親切で温厚な人物なのだと正当化するために(対価として)過剰な親切を行っているということです。だってその方が代償として払うコストが格段に安上がりだから。でも、それは他者に向けられた真心ではなくどこまで行っても自分のことでしかないのだから、親切が容易に裏返って他人を攻撃する動機にもなり得る。

攻撃された側は、あの親切な人がそのような行いに至ったということは自分に非があったのではないか?と一度は考えるけれども、それを幾度も繰り返されるうちにその異常性に気が付いて去っていく。そうして彼の周囲には誰も残らない。

当の本人は問題を起こしても、その代償としての”異常な親切”を行うことによってうまく帳尻合わせをした気になっているから、厄介な問題に正面から向き合わなくて済むわけです。自分が自分自身によって欺かれていることにまったく無自覚なのだから幸せという他ありません。

しかし、さあ俺の厚意を受け入れろ!そして俺を讃えろ!と他人に押し付けたところで他人は全く受け入れてなどくれないし、見透かされて嘲笑されるのが関の山です。そもそも、返礼を前提とした厚意など厚意でも何でもない。ただ単に彼が最も嫌う価値観の一つであろうところの「吝嗇」というだけの話です。なんとセコイことか。

無意識にそのような詐術を行うことで自我を温存し続けて歳を重ねてしまった人の末路は醜く、悲しい。眼前にはただ無明の荒野が広がるだけでしょう。そして、引き返すには遅すぎる。

自分の足元を照らしてくれるのは、ただ内省という小さな灯火だけだと思います。

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