再生と新生
今日は久しぶりに県南の方にカレーを食べに行ってきました。
子供が生まれてからは辛い食べ物をしばらく食べに行けなかったけれど、ふと思い立って(今月号のmonmiyaがカレー特集だったからちょうど食べたくなった)ドライブがてら行ってきたわけです。7年ぶりにお店に訪れたのに、マスターがぼんやりと覚えていてくれたのでちょっと嬉しかった。
でも、ひとつ気になることがありました。お店のおばあちゃんがいない。
途中になった編み物がいつもの席に置いてあったから、少し席を外しているのかな?と思いました。
そのお店には優しそうなおばあちゃんがいて、いつもTVの前のテーブル席で編み物をしていました。私が訪れるのは日曜日の昼と決まっていたから、なんでも鑑定団の再放送を観ながらいつもおばあちゃんが編み物をしていたのをよく覚えています。マスターと一緒におばあちゃんが他愛のない話をしている、ふたりののんびりとした店内の空気がすごく良かった。ただそこに座っているだけでお店の空気が和むような雰囲気のおばあちゃんでした。
帰り際にマスターと少し世間話をするとおばあちゃんは2年前に亡くなられたとのことでした。
「看板ばあちゃんでしたからね」「お客さんが皆悲しんでくれるんですよ」
亡くなったおばあちゃんの席は今でも開けてあって、まるでちょっとだけ席を外していて今すぐにでも戻ってきて編みかけのセーターの続きを始めそうな気がした。多分、マスターのいつ戻ってきてもいいようにという配慮なのだろう。
ひとりの人間の存在の重さ。そしてその埋めきれない不在に対する残された人の哀しみ。人が人を悼む気持ちや思慕。覚悟。
うまく表現できないですが、私に湧いた感情は敬意というものを超えたもっと重いなにかでした。
金曜日には取引先の方がカフェを始められたので記念に珈琲を頂きました。
1杯目をお店に珈琲を卸している焙煎家の方が飲んだので、実質私が珈琲を頂く最初のお客さん(になるのかな?お金払ってないけど…)だったから衆人環視の中で頂くのはちょっと緊張しました。
代表のTさんやSさんが以前からカフェを併設したいと言っていたので、その夢がかなって本当に良かったと思います。ここを足掛かりにしてもっともっと色々なことを充実させたいというポジティブな話を聞いてこちらも嬉しくなりました。誰かの「本当にこれがやりたいことなんだ」という話には人を惹きつけるものがあるし、力があるなあと思います。
ここまで立ち上げるのに人知れぬ努力を積み重ねてきただろうし、手作りのお店の随所にその痕跡があった。椅子一つ、コップ一つをどうするのかから始まったのだろう。まだまだ不格好だろうし、これからめっちゃくちゃ苦労すると思うけれど自分たちの城を自分たちで立派に立ち上げた。マジですごいよ。
だからこそ絶対に成功してほしい。
1杯のカレーにも、1杯の珈琲にも作った人の見えない思いが込められている。
「この飯、おろそかには食わんぞ」(『七人の侍』)