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2022/08/13

お盆ですよ。

夏というのはどうも昔からこの世ならざるものを連想させます。

暑さの盛り。ふとした瞬間に寂寥感や無常を感じることがよくあります。絶頂であるがゆえにその先が見えるからなのか。そして、そうした季節にはどこか死や異界にふらっとつながるようなイメージがあります。だからこの時期にお盆があるというのは、とても納得がいきます。

昔、ベトナムのハノイや中国の海南島に行った時に経験した南国の夜の感じが私はとても好きでした(*ナイトライフという意味ではないですよ)。なぜだか理由は分かりませんが、暑い国の方が夜の黒さの濃度や粘度を感じます。どろっとした暗がりがそこら中にあって、その辺の路地に迷い込むだけで面白くて心地よくて毎晩散歩をしました。観光名所を歩くよりも、入り組んだ路地、煮炊きの匂い、賭けトランプに興じる地元の人の姿の方がよほど面白かった。危険なのでやめなさいと怒られたけど。

どうも自分の気質的に、どこか暗がりや異界といったものに強く惹きつけられる何かがあるんだろうなあと思います。

私はあの世というものに対して特定の考え方というものを持っていません。信仰という入れ物がないのでまあそうなるわけですが、現世でのありかたについては、故人の生をできる限り利用しなくてはいけないのではないかという責任を感じるようになりました。歳を取ったんでしょうね。

好むと好まざると、とにかく襷を渡されてしまったのだから次の走者まで走るしかない。

エスキモーのように極地に住む先住民族は獲った獲物をどこも無駄にすることがないと言いますが、あの人の良かったところ、悪かったところ。そういうものを折々に考えて自分の生に取り込んでいくこと。そうして精神の血肉に変えていくことが、私がなんとなく考える命のつなぎ方です。この場合、肯定か否定かはエネルギーの方向の問題であって些細な違いだと思います。

私の会社の机の中には、昨年の1月に亡くなった祖父の一枚の写真が入っています。1988年11月7日。恐らく、農協の旅行か何かなのかな。斎場のエントランスのサイネージに小首を傾げて映った祖父は、生前に記憶のない穏やかな表情をしていました。

存命の間は三国志の張飛を圧縮せずに異世界転生させてしまったような人物だったので、肉体言語の人がこんな表情をするのだなという驚きを感じて、式後に喪主の叔父に頼んでその写真をもらってきました。祖父のこういう部分も誰かが覚えていようと。それは多分自分の役目なんだろうなあと。

終業後に時々ひとりでこの写真を眺めてみます。見れば見るほど不思議な写真で、この時に祖父が何を考えていたのか想像がつきません。でも、祖父は繊細できっといろんな物事の本質が見えていたんだろうなあと思います。そして、人間愛というものがあればおそらくこんな表情になるだろう。そんな一枚です。

この写真は、いっぱいのコーヒーのように私のがさついた心をほっとさせてくれます。

まあ祖父はゴリゴリの焼酎派だったのですが…。

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